中野さんの学生時代(丸亀高校→慶応義塾大学)

香川の丸亀という「うどん」「うちわ」で有名な町で育った中野さんは、幼いから注目を集め、常に小中学校時代もクラスの中心で”3年連続無遅刻欠勤”の皆勤賞をもらうほどの模範生だったり、中学時代は100m走で"市内大会2位"好成績をおさめたりした。女子のグループでは常に中心的存在で行事ではみんなを引っ張る”リーダーシップ”を発揮していたという。この頃から、習い事の数が多い(日舞+バレエ+水泳+エレクトーン・中高時代ではソプラノサックス、コントラパス)ため授業が終わると直ぐに帰宅しないといけなかったとはいえ、クラスでの存在感は抜群だったという。

それにも関わらず、誰にでも分け隔てなく付き合うほど寛大さを持ち合わせていた所から、中野さんの性格の良さが形成されたように私は感じた。
おそらく中野アナの「おごらず謙虚に」という"モットー"はここから完成したのかもと感じた位だ。現に今現在の中野アナの性格はこの時代が原点だったかもと思う人は少なくは無いだろう。

香川でも有名な進学校である丸亀高校へ進学した中野さんは、イベントに熱心で高校野球には特に思い入れが強く「応援するだけでは物足りない」と言う考えで所属していた写真部では率先して野球部の写真を取るなど積極的にに活動してきた。その熱心な姿に魅かれてか高校2年生の時の夏の甲子園の予選では、「球児を追う高校生」こと応援する中野記者?の姿を地元のテレビ局でも取り上げられるほどだった。写真部に入部して間もない中野さんは、フイルムの現像で撮影したネガを真っ白にしたこともあるが、最後には撮影してから暗室作業までのすべてをこなす程まで成長した所から本当に「努力は人を裏切らない」と言う言葉が似合う人なんだろうと思う。

当時の中野さんは「東京に行きたい」と言う気持ちが強く、慶応義塾の指定校推薦を勝ち取る為に授業に日々出席し、中間期末では必ず成績を残し部活動でも実績が必要だったが見事クリアし「夢への切符」をつかみとった。

無事に慶応義塾大学(商学部)に進学した中野さんの慶応を選んだ理由は、慶応にだけ「メディアコミュニケーション研究所(旧.新聞研究所)」があったたためだ。そこは実際にテレビ局の報道で働いている人であったり、他のメディア、例えば新聞社の人であったりと、実際にメディアの現場で働いている方達の授業が受けられるから。大学に入学時の中野さんは、絶対に受からないと思っていたものそれに見事合格する事ができ、夢へとまた、一歩前進することが出来た。そこで実際に他局の報道の方と知り合ったり、新聞社の方とと知り合い見学に連れて行ってもらったりした。

そのため中野さんはますますメディアで働きたいという希望が出てきたという。まわりも”テレビ好き”が集まっていていた為、学部の枠を超えたつながりもできていき、少しずつ報道へ進みたいとの意欲を深めていく。

大学2年時の99年の三田祭では「ミス慶応」に輝く。そのきっかけからキャンパスQEEENとしてポパイの雑誌の表紙を飾る事を始めJJで活躍したり、学生時代からBRUTUSでは、政治経済ニュースを優しく解説したり、「ミス慶応が斬る」などのコーナーも開設していた。そのころから、報道で活躍する為の土台を作っていた?といっても良い位将来を構築していたような凄く意気込みを感じる。

日本テレビでのコンパニオン(アルバイト)での活躍も重ねた中野さんは、日本テレビの某番組(名前はあえて伏せておきます)ではアシスタントを月2回こなすなど、大気の君臨を咲かせていた。

その翌年の大学三年ではインターネット上でふとしたきっかけでインターネット上で新聞の記事を書く機会に恵まれる。きっと中野さんの頑張りがつかんだものではないかと私は思う。月2回の配信でネタとしてはゼミが国際政治経済という関係上、「OPECの問題や貿易問題、イラクの核問題、マイクロソフト分割問題」等、幅広いジャンルで活躍していた。新聞を読んで記事について自分がどう思っているかという事を書いて夢への階段を上っていった。そこでの中野さんは、自然の密着した意見を書ける場所で、面白さを感じていた所から確実に将来大物になると予感していた人も少なくは無いかなと思う。

知っている方は知っていると思うが、実は言う中野さんの希望「アナウンサー」よりも「報道記者」であったが、報道記者の試験よりアナウンサーの試験が速かった為アナウンサーの方から受験することになる。テレ朝、日テレ、TBS、フジテレビの順番で数々のキー局を受けるが中野アナが一番希望していて深いつながりがあると思っていた日本テレビは最終面接で残念ながら・・・。その時中野さんは凄く落ち込んだという・・・。

もう一つの最終面接のフジテレビアナウンサー試験にも無事に、コマを進める事になり、中野さんは、『第1志望:アナウンサー  第2志望:報道記者』 と書いてたと思っていたところ、報道記「書」との書き込みを突っ込まれるもの「アナウンサーとして面接に来た」と上手く切り返す事ができ、見事に内定を勝ち取った。その日の18時頃、携帯電話に内定の連絡があり、その時はちょうど試験の直前の時だったという。中野さんにとっては、忘れられない日であったと同時に「テレビ局で働きたい」言う夢をかなえた一瞬だったと思う


本当に中野さんは努力を重ね、夢を勝ち取っただけに拍手を送りたいし、どうして中野さんの頑張りを心無い人は学生時代から中傷するのかな?怒りが収まらない。中野さんへの中傷は「僻み」もいくつかあったかもしれない。現に私のサイトへの投稿で嫌がらせ投稿があって問いただすと「アナウンサー試験に落ちたからうらやましくてやった。中野さんには頑張って欲しい」との言葉もあったのが現状だった。

中野さんには本当にこれだけの頑張りがあり、努力してきたからこれを是非ともアナウンサーになって活かせてほしいし、それが大きな財産と蓄えて新しいアナウンサーとしての扉の第一歩を踏み出す事になる。

2002年の4月これからは世間体が「中野さん」じゃなく「中野アナ」という肩書きが増えるし背負うべきフジテレビの看板がある。日本テレビを見返すような活躍を心から期待したいし、序章で「中野美奈子物語」がここまで素晴らしいものを築き上げた中野さんだが、本当の物語の中心は報道(アナウンサーになってから)での活躍だと思う。

中野さんが”中野アナ”になっても心から「努力は人を裏切らない」と言う言葉が生きていく限り、何時までも向上心をもってくれる事を願ってやまない。大空へ羽ばたけ中野さん!!